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2009年1月

2009年1月12日 (月)

「亀」池田将

コミカルな味付けがなされてはいるものの、物語の展開を切り詰め、過剰な演出や、恣意的な編集を抑え、人物描写だけで、観客にショックを与えることなく、しかし退屈を感じさせず、スムーズに、軽妙に、厚みや多層性、振幅を保ちながら、リアルに、世界をというよりも登場人物たちを肯定していく。

幸福感を無理強いするわけでもなく、グロテスクさを暴き立てるわけでもなく、かといって対象を突き放した俯瞰の獲得を意図されているわけでもない。

この無作為、というより非作為ともいうべきナチュラルなしなやかさは日本映画のひとつの到達点と言えるだろうか。

作為ー無作為という構図からずれたところで、どこかエンターテイメント性を帯びながらも、リアリスティックな描写をつみかさねていく。

われわれは、日本的自然(じねん)が、夾雑物をそぎ落としながら、その姿をスクリーンに現した瞬間に立ち会っているのかもしれない。

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2009年1月 4日 (日)

<問い>の問答

気鋭の禅僧ということになるのだろうか、南直哉、玄脩宗久、二人の禅僧の対談集。
興味深く読んだけど、まとまった感想が出ないので、面白味を感じた部分をいくつかピックアップ。

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奈良仏教がことごとく「葬式はしない」といっていたなかで、死者、あるいは遺族を目の当たりにしたときに、「手をこまねいてはいられない」と判断した禅宗と真言律宗があったわけです。けれどこの死者供養を引き受けたことで、仏教はどこまでも混沌としていきます。

死者というものを考えたり思ったりすることの意味を、「ある」とか「ない」とかでけりをつけられないし、つけてはいけないのです。もしつけたとしたら、おそらく宗教の言語は閉塞していってしまうでしょう。

最後になると、あの方(親鸞聖人)は阿弥陀仏さえも要らなくなってしまったのではないかと思うのです。つまり、「自然法爾」という、あの時点で仏教は終わっていますよね。

仏教や信仰がコミュニケーションであるなら、まず自分にとっての仏教とは何か、信仰とは何かを設定して欲しいわけです。そのうえで、その設定に基づいて何を問題とするかを語る。それをしないまま、最初から「正しい仏教はこうです」「こうしなきゃいけないんです」「これが真理です」などと言うな、ということです。

仏教を一種のイデオロギーにして、観念体系に還元してしまうと極めて危ないことが起こる。「無常」とか「無我」、「涅槃」といったものを、観念のなかでガチガチに構成してしまい、それを原理として押し出して教団をつくり、実践しようということになると、ひじょうに危ないことになる。

そもそも自己存在が<物語>的な存在ですからね。だから、その主体は「仮説(けせつ)されたもの」だということをつねに意識せよいうのが仏教の立場だとしたら、「<物語>は便宜上必要だけれども、まともに信じちゃ駄目なんだ」というところは、どうしたって失ってはいけないと思います。

「鐘が鳴るのか撞木が鳴るのか」という問答がありますね。それをよく、「鐘が鳴るのか撞木が鳴るのか、鐘と撞木の相が鳴る」というところで落ち着けちゃうんです。鐘と撞木が出会ったことが鳴っているー。これは一見正しそうに聞こえます。けれども、そうじゃない。「出会ったときに鐘と撞木が発生する」わけですね。

方便が許されるのは、「発言者がその責任をすべて負う」という覚悟があり、「それ以外には言いようがないということが、自分からではなく相手から迫られたとき」です。 だからこそ大事なのは、それをぜったいに普遍化できないということです。

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2009年1月 3日 (土)

「さようなら、私の本よ!」大江健三郎

主人公の長江古義人という老齢の小説家の中にある“おかしなところのある若いやつ”は、自信の内面にそれを抱え込んだ葛藤として描かれることは無く、周りに出てくる若い登場人物に、ゆるやかに仮託され展開していく。
老齢の小説家、長江古義人は今まで ー世界の事柄を自分の問題として書いてきたー という内容のことが小説の中で言われているが、それは同時に自分の事を世界の事柄のように書くことでもあっただろう。
大江はここで老齢の問題をそれ自身として描いている。

ー自分の死後の社会の発展に望みを託す人間はいますよ。しかしぼくについていえば、自分の死後に世界が滅びるのと核廃絶が行われるのと、どちらがありうるか、と考えることもなくなりました。

ー今日は自分が死ぬ日だとわかってる朝、新聞を隅から隅まで読んで、核廃絶の気配はないと観念して、ワーワー泣く。

ーこの心理的な苦痛としての失望感も、数時間たてば自分の死で消滅する、と知ってるんです。むしろ安心感のなかでワーワー声をあげて泣いていました。 

小説の最後に長江古義人は未来の若い世代に希望を託す仕事をする。しかしそれも未来の世界を憂いて行うというより、自身のモチベーションの発露先として選択されているように思える。

こういったエゴイスティックな動機を核に据え続けながら、それを世界大の神話的なスケールとリンクさせ混濁させるところに大江の小説家としての真骨頂がある。

漱石は自分の袋は自分の錐で破るより他に道は無いと言ったが、この「個人主義」は、どうしようもなく孤独でありながらも、同時に他と比べることがそもそも意味を成さない個別性をもっており、そのことが開放をももたらす。

大江はこの個別さと一般的な問題を混濁させるが、そこにはある線引きが行われており最後、一般的な問題と共有不能な個別性を手放さずにいる。

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