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2009年6月

2009年6月29日 (月)

「たまもの」いまおかしんじ

「伝説の女優」林由美香という触れ込みに興味を持って「たまもの」鑑賞。
面白い。女優も面白いし、映画も面白い。いまおかしんじは、自分と同年の1965年生まれらしい。今の40代から少し上くらいの世代には、この種のとぼけたジャンクな寓意を面白がる傾向があるんだろう。電気グルーブやスチャラダパー、筋肉少女隊や、たまなんかを聴いていた連中。宝島や写真時代を読み、トマソンを求めて路上を徘徊し、同世代のバブリーを嫌悪しつつも、裏側でこぼれ落ちた果実の恩恵にも与っていた連中。みうらじゅん言うところのサブカル世代の一員。いまおか本人が、こんな感じかどうか知らないけど、だいたいその近辺とまとめてザルに盛ってもいいだろ。正直なところ、04年という制作年にしては、いまさら感も感じるが、その分何か円熟味を増したジャンクといった妙な風情がある。

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「表層批評宣言」蓮見重彦

なんとなく、昔読んだ「表層批評宣言」を引っ張り出して読んでいたら、下の文章に感心した。

「今生きているという事実に自明の手ごたえ」を感じつつあるものこそが、なおも世界へと向けておのれ自身を旺盛におし広げ、世界との無媒介的な合一感をくまなく玩味しつくしている瞬間に、「制度」とは無限に離れた地点から発せられる未知の声として、「問い」と「答え」とを同時的に生きるといった事件こそが、真実の「問い」なのだ。「問い」とは、「制度」的な言葉によってあらかじめ抽象空間に設置されているものではなく、予想だにしない時空に、過去の体験を超えた言葉として、それを口にする者自身を驚かせるやり方で不意にかたちづくられ、しかも「答え」そのものを裡に含んだものなのであり、その不意撃ちが存在を崩壊へと導くことはあっても、存在の崩壊感覚が「問い」を招きよせることなど断じてありえはしない。

「今生きているという事実に自明の手ごたえがあるならば、誰もその意味をことさら問うたりあげつらったりしようとは思うまい」と書いてしまうことの抽象性が、途方もなく貧しいのだ。

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2009年6月28日 (日)

「二十四の瞳」で思い出した先生

「二十四の瞳」の映画を見ていて、小学生の頃の女性の先生を思い出した。
その先生は1年のときの担任だった人で、自分が6年になったときに、音楽の担当教師として再会した。6年のクラスには、もうひとり1年で同級生だった男の生徒がおり、その先生は自分と、もう一人の男子生徒に対して特別な態度をとっていた。特に贔屓をしたりしたわけではないけど、明らかに特別な思い入れがあるという風で、自分はそれを嬉しく思う反面、疎ましさも感じていた。その先生にとって自分たちが、どいう存在だったのか何も分からないけど、そういう視線で迎え入れられたことは、自分にとって重要な財産になっていると思う。

中学になって、小学6年のときの担任の女の先生に友人たちと会いに行ってラーメンをおごってもらったこと。高校になってから中学3年で同級生だった友人と一緒に登校しているときに、中3で担任だった、いつもティアドロップのサングラスをかけている男の先生がアメリカンタイプのバイクでの通勤中に自分たちを見つけてクラクションで挨拶してくれたこと。

「二十四の瞳」では、先生は泣いてあげることしか出来ないというセリフを言う場面があるが、それこそが真に意味を持つ行為のように今は感じる。

もちろん教師は職業であり、日々のルーチーンワークが業務遂行にとって重要な仕事だろう。学園ドラマのような熱血教師を夢想するつもりはないし、すべきでもない。しかし、業務というカテゴリーに還元しきれない動機こそ、業務というカテゴリーを成立させている条件でもあるのだろう。

坂口安吾は「墜ちよ」と言った後に、しかし人は墜ちきるほどに強くはなく「天皇」を担ぎ出さずにはいられなくなるだろうと言う。

「二十四の瞳」の主人公、大石久子は教師としては慈愛の眼差しを生徒に向けるが、家庭では、ごく普通の娘として、妻として、母親としての姿を見せる。大石久子の"愛情”は教師というカテゴリーが生み出したものであると同時に、そのカテゴリーの求める役割の遂行を困難にするものとして働く。

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「二十四の瞳」田中裕子版

田中裕子目当てで「二十四の瞳」のリメイク版を見る。
TVドラマの向田邦子スペシャルのような、上品なだけの面白味の少ない演技ではあったけど、向田スペシャルよりは良かった。それでも、それなりに楽しめるのは裕子愛の賜物。しかし、先生には見えないなぁ。卒業式での黒い着物姿なんか、色っぽい未亡人みたいに見えてしまう(笑)。自分の目線の問題もあるだろうけど...。

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2009年6月21日 (日)

「残菊物語」溝口健二

これも「二十四の瞳」同様、この映画を面白いと感じる、その力の出所が分からない。
「ワンシーンワンカット」や、「美しい映像」や、「完璧な構図」もあるだろう。ほとんど舞台のような演技が持つ、舞台演劇の力に拠るところも大きいだろう。かつて劇映画という言い方があったが、演劇が映画にパラフレーズされていく、そのダイナミズムの至福の出会いという言い方もできるのかもしれない。

もはや、この映画の物語の展開や、セリフや、人物造型に何の反応も起こすことは出来ない。陳腐という言葉すら遥か彼方に過ぎ去っている。それに冷笑も、哀れみも、慈しみも覚えない。尊敬も、事後的な勉強だ。ただ、ここを生きた人が居たことは確からしいと感じる。そこにある、役者や、演技や、物語や、撮影機材や、撮影システムで、力の限りを尽くそうとした、その意思に打たれるのだろうか。しかし、そう結論めいたことを一足飛びに言ってもしょうがない気もする。ただ、この映画の力が映画技法の問題だけではないことは確かだ。

センスがいいというのが、一番簡単でしっくりくるかなぁ。戦後にはないセンスの良さ。何を描くかではなく、どう描くか。う~ん...。舞台役者の演技の力かなぁ。それと映像美の融合...。

それにしても、この映画での関西弁は完璧。関西人からすると、往々にして昔の映画の関西弁には許しがたいものがあるけど、ここにはそんなものは一切ない。

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2009年6月18日 (木)

あきらめた

あきらめた。もう。もういいや。あとは、その都度、やるべきことをやるだけだ。お終い。

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2009年6月15日 (月)

「二十四の瞳」木下恵介

この映画が面白いのは何故だろう。何が、この映画の力なんだ?

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2009年6月14日 (日)

「竹山ひとり旅」新藤兼人

全盲に近い三味線弾きが、貧困と蔑視の中で寒村の家々をめぐり、角付けをしながら、その日暮らしを送らざるを得ない様子を描いたこの映画は、重く救いの見えない題材に物語上の慰撫を施すことを拒絶するかわりに、ユーモアでそれに対峙する。
朴訥で人懐こく、一徹な性格として造型された主人公の存在が、ベタベタなヒューマニティの挿入を必要としない砦となっている。

かつて類型として存在した、この種の人物像が機能しなくなったとき、物語は変質した。

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桃井かおりのたたり

DVDを見ながら酒を飲んでいたら楽しくなってきて、わははーって機嫌良くしていたら、急に気持ち悪くなって、トイレに行って、布団にくるまって、うーってうなって、回復してきたので起きて、布団の上でしばらく斜め下あたりを眺めることもなく眺めて、コンビニ行って、中華がゆを買ってきて、数時間前まで見ていた桃井かおりみたいな顔になって、ずずーってすすることになった。かおりの困惑顔を面白がってたタタリだ。

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2009年6月 7日 (日)

男優の時代

たぶん。
もう、ここ十数年になるだろうか、現代日本映画の中堅~若手の男優には、複雑なニュアンスを表現できて、出てくるだけでビビッドに響いてくる俳優が多い。それらはアンチヒーロー型のそれであって、韓流スターのような古典美を体現しているわけではないが、そんな絵に描いたようなスターが今の日本に現れるはずはない。それと引き換えに現代日本の若手男優は別のフェーズを手中にしている。

一方、若手女優にはそういうものを感じない。単に自分が若い女性に共感できるものを持たないということなのかもしれないが、たぶん違う。この薄さは異様な事態だと考えてもいいだろう。実際の女性が抱えていることが薄いわけではない。その表現方法に適切な形が見出されていないと見るべきで、何かを見ないようにしている類の薄さだろうと思える。

女性の時代などという言葉が聞かれなくなって久しいものの、その種の言説の余韻は無いわけではない。しかし未だ女性の社会的権限は高くは無い。女性の解放は消費者として、そして商品としてのみ許容されている。女が女を買う。男の商人の下で。kawaiiに集約された現状肯定の閉塞。

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2009年6月 6日 (土)

iTunes 8.2 for windows

iTunesを8.2にバージョンアップしたらマルチメディアオーディオコントローラに?マークが出て、音が出なくなった。
ドライバの再インストールがよく分からなかったので、back upファイルから8.1に戻して使用。別にこれで不都合はないけど、最新版でないのはセキュリティの問題もあるだろうから、ちょっと不安。また後で何か考えよう。

PCがトラブルと数時間はあっという間に使ってしまう。時間を使って、以前の環境に戻すのはバカバカしい気もするけど、その分、多少のスキルアップには繋がっていると考えることで、元を取るようにする。

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2009年6月 4日 (木)

ときどき、無性に「The Wall」

年に数度、無性にピンクフロイドの「The Wall」が聴きたくなることがある。これじゃないと開放されないタイプの感情があるみたい。他のプログレは聴かないし、普段はニューソウルなんかを中心に聴くことが多いけど、その間隙を縫って顔を出す。

The_wall

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