文化・芸術

2009年5月30日 (土)

岡崎乾二郎 ーあかんやろ

岡崎乾二郎の作品は見たことがあったし、凄いなぁとは思ってたけど、改めてHP で絵を見てみると...。
あかんやろ、これ。え? いやいやいやいやいや、え? paintingって、そらまぁ... なんていうか、いい大人なんだから、ギブアンドテイクでね、自分の城を持ってね、共存共栄を図ってこそ社会というもんです。こんなことされたら、なんも、ようゆわんわ。

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2009年5月 4日 (月)

「実存」という感覚

「ヴィデオを待ちながら」というビデオアート展を見て改めて感じたのは、60、70年代にあった「実存」の感覚の重要性。この展覧会で紹介されていた60、70年代の作品は様々なコンセプトで作られて入るが、どれも「実存」をめぐっているように見える。それは、あまりにもありふれた60、70年代のイメージが自分にまとわり付いていて、もうそれから自由に、この時代のものを見ることが出来なくなっているのかもしれないが、やはり、それだけではないだろう。

「実存」の余韻が消えた後の現代美術の試行錯誤はテーマパークやプロパガンダとしてしか機能しない。我々はもはや「実存」を信じることはできない。「実存」という言葉の強烈な副作用にのちの時代が抵抗したのも当然だ。しかし、そこで指し示されていたものが霧消するわけでもない。消えた「実存」はマーケットに吸収され「自分探し」になる。それへの抗いとして「差異」であったり、「他者」であったり、近年では「承認」であったりする。しかし、それらのキーワードは「実存」の存立基盤を説明はしても、主体に働きかける力は弱い。「実存」が触れえていたある領域への感覚があってこそ、それらの言葉に力は発生する。あるいは「差異」や「他者」は、その感覚獲得のインフラ整備を担当しているといえるかもしれない。
この「実存」に相当するあるものは、資本主義経済に生きるものにとって、クリティカルポイントであることに変わりは無い。

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2009年5月 3日 (日)

「ヴィデオを待ちながら」

東京国立近代美術館で開催中のビデオアート展「ヴィデオを待ちながら」。
ビデオアート誕生から40年、未だ美術館にビデオアートの適切な展示方法が成立していないことに愕然とする。ごく短い作品以外、突っ立ったまま、あるいは幼稚園の椅子のようなものに腰掛けて、最後まで鑑賞したバカ人はどのくらいいるのだろうか。夕日の周りを水平線が移動する映像を、20分も見る意欲が発生する可能性はゼロであり、説明書きで何が起きるのかを補完して作品の受容が、かろうじて成立する。売店には紙媒体のカタログはあってもDVDは購入できない。あのホラー版ピタゴラスイッチなんか家でじっくり見たいのに。

それにしても、観客の女性の美的クオリティが、軒並み高かったのは何故?ビデオアートはモテるのか?ほんとに?

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2008年11月 3日 (月)

日本中世リアリズム

日本中世の肖像リアリズムは他に類例を見ないもののように思う。
西洋でも中国でも、肖像画は対象の美化、尊大化が行われており、「一休宗純像」などに見られる、対象を美化することのないリアリズムは少ない。一般的な尊大さに抗して現れた社会主義的なリアリズムも、ソ連や中国の「社会主義リアリズム」は論外としても、「苦境に喘ぐ民衆」の表象であって、日本中世のリアリズムとは位相が違う。
ではこの時期の日本のリアリズムが、真にありのままの実相を掴もうとしたリアリズムであったかといえば、そうとも言い切れない。飾り立てられた威厳、虚飾を排し、卑近にも見えかねない生々しさにアドバンテージを見出す価値観は、それを追求する姿勢自体を崇高なものとして、「偉大な」肖像画を現出させる。

突き抜けた尊厳や崇高さに抵抗を見せる日本人が具現化した「崇高さ」が、中世肖像リアリズムの中に、その特異性を顕著な形を持って現している。

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2008年8月17日 (日)

ロン・ミュエック-金沢21世紀美術館

金沢21世紀美術館でロン・ミュエック展を鑑賞。
隅々にまで徹底的に追及された写実を異常なスケールで実現した人体像の前に立てば、自らが纏っている社会的な制約から離れることなく、それらと向き合うことは難しい。
そのリアリズムはグロテスクな露悪趣味に近づきながらも、それに陥っておらず、シニシズムを回避しえている。
大変ユニークな直球勝負の作品ではあるが、事前にTVや雑誌などで見ていたときに感じたものと、実物を見たときの感覚に質的な違いを持つような大きなズレは感じられなかった。
モダンアート以前の美術に接するときにしばしば、今回と同様の感覚を覚えることがある。モダンアート以降には複製技術への抵抗がどこか塗り込められているのか、実物に拠らなければ得られないものの領域が、それ以前のものに比べ大きいように感じるが、ロン・ミュエックの作品には、それらモダンアートの拠ってたつ地盤を共有しないものがあるのかもしれない、というような気もしないでもないような感じ。

それにしても美術館は大盛況だった。ロン・ミュエックの他、日比野克彦、サイトウ・マコトといった集客力のある面子のせいもあるんだろうけど、まず現代美術に興味を持ちそうにない、若いカップルや、小さな子供のいる家族連れ、家族に付いて来たのだろう歩くのも大変そうな、おばあぁちゃんも来ていた。地元の人がどれだけいて、観光客がどれだけいたのか分からないけど、遊興施設の不足なんかの条件もあるんだろう。あるいは、地元のマスコミが繰り返す連日の報道ぶりに、何となく行ってみたい/行かなくてはいけないという気分が発動する磁場が働く、なんんてこともあったりするのだろうか。

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2007年9月 1日 (土)

仏教への旅

TVで「仏教への旅」という番組で韓国の禅僧が話していたことが、仏教徒としてシンプルで、まっとうなことを言っていて感心した。

自身の中にある仏性と向き合い、社会的な運動を行うにしても解脱に最終目標を設定すべきであるという。そこを押さえていれば問題はおのずと解消されるだろうと。

こういう核をそのままゴロリと提示するあり方は、禅宗の特質なのか韓国の国民性から来るものなのか、たまたま語っていた僧侶のパーソナリティの問題なのかは分からないが、新鮮に感じられた。

それにしても修行で打ち鳴らされているという太鼓のかっこいいこと。

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2007年6月17日 (日)

ユトリロ「モンマルトルのノルヴァン通り」

ユトリロを見てきた。後期の可愛らしい絵も悪くは無いが、やはり初期のものに惹かれる。1910年頃に描かれた「モンマルトルのノルヴァン通り」が三点並べて展示してあったが、これが絶品だった。ユトリロの情念と、物としての絵の具の共犯関係。画家が絵の具を使っているのか、絵の具が画家を使って描かせているのか。こんなキャッチコピーは、どんな絵にも言えてしまうことなんだろうが、イメージの生成と画材のマテリアルな存在が、こうも拮抗しながら成立している絵画は稀有ーなのかどうかは分からないが、そこに強く引き込まれた。

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2007年1月21日 (日)

写生という行為

最近写生をしているが、自分は今まで現物を見て描くという事をしていなかったことに気付いた。写真を見て書き写すのと違い、写生では、物の形が掴みづらく、物には輪郭が存在しないことを知らされる。輪郭は作り出すものなんだと思う。また、写生とは物を正確に描き写すことではなく、正確に見えるように描き出すことでもある。対象を見ている時間と、紙の上で筆を走らせている時間はまったく別物で、そこには何も関連が無い。近くにあるものを写生するときなどは、右目で見える景色と左目で見える景色では、違いが生まれ、描くときにはそれを選択しなければならない。

 描くという行為は、見るという行為とは関係が無く、身体の運動とその軌跡をとどめることが出来る物理的な条件だけが必要なのだろう。物を見て描く写生とは、もっと社会的、文化的行為で、描くという行為を社会的ならしめるものが写生といえる。

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